2020-11-10に更新

ビデオゲームにおけるカタカナ語「ナラティブ」を別の言葉に置き換えて意味が通るか検証してみた

2020/11/10更新

  • 「形容詞」としているものは「形容動詞」であると指摘を受け、実際にそのとおりであったため「形容詞」を「形容動詞」に変更しました
  • 「副詞」としているものは、正確には「形容動詞の連用形」であったため、そのように変更しました
  • 松永伸司さんの氏名を誤って「松永真司」としていたので修正しました

乱用される言葉「ナラティブ」

かつて、ビデオゲームにおけるカタカナ語「ナラティブ」という言葉について、講演やSNS、ブログ等で説明が試みられ、多くの人がその意味を解釈しようと奮闘しつつも、一部の人は「理解した」と言い、また別の一部の人は「わからない」「混乱した」と理解ができない様相を呈するというような現象が起きました。

この現象の経緯の概要を把握するためのまとめページとして「ビデオゲームにおける「ナラティブ」について言及されたページを時系列で並べた資料」というページを作成してあります。

実際、この「ナラティブ」について説明を試みようとしている文章では、この「ナラティブ」という言葉を多様な品詞(名詞や形容動詞、形容動詞の連用形)で用いていたり、品詞が同じでも、異なる意味で使用していたりなど、「ナラティブ」という言葉の乱用が認められます。

そこで、すでに「ナラティブ」について説明されている文の「ナラティブ」という言葉を、品詞を特定できる別の用語に置き換え、品詞が同じでも別の意味で用いている場合も別の言葉に区別して置き換えたときに、その意味が通る文になるのか、そして、その文は比較的わかりやすい文になるのかについて検証してみたいと思います。

「ナラティブ」をメタな単語として用いている文(例「ナラティブという言葉が登場した」)は検証の対象とせず、「ナラティブ」という言葉に何か特別な意味を持たせて使用しているであろう文(例「このゲームはナラティブだ」「ナラティブなゲーム」「ナラティブを活用する」)を検証の対象にします。

品詞の違い

最初に、ビデオゲームにおけるカタカナ語「ナラティブ」が日本語圏で最初に説明された文献として「【CEDEC 2013】世界で注目される概念「ナラティブ」とは何か? - GAME Watch」を取り上げます。

まずは、どの品詞として使われているのかを洗い出してみたいと思います。

ナラティブとは、端的に言えば体験の中で形作られる体験者自身の物語のこと。

ナラティブを存分に活かした作品としては「ドラゴンクエスト」が挙げられるという。

ストーリー、自由度の偏りはナラティブを生まない

まず、これらは「ナラティブ」という言葉を名詞として使用しています。

ナラティブなゲーム

人から押し付けられたものではない、自分の決断として物語を進めていけるこの方法は、ナラティブな工夫の1つとなっており、クリエーター同士で「ドラゴンクエスト方式」と簗瀨氏は呼んでいたそうだ。

物語はふんだんにはあるものの、ナラティブな体験とは少し違う。

これらは「ナラティブ」を「名詞を修飾する語」としての形容動詞として使用しています。

この時点で「名詞」と「形容動詞」の2種類の使われ方があることがわかります。

さらに別の記事には、以下のような用法があります。

【GDC 2019】AIは感動的な物語体験をゲームで表現できるか? GDCに見る最新トレンド | モリカトロンAIラボ

現実世界に適切なアイテムを配置して、それをナラティブに活用することで、より豊かな物語体験が演出できるようになると述べました。

「ナラティブに活用する」の「ナラティブに」は、動詞を修飾する形容動詞の連用形です。

「名詞」「形容動詞」「形容動詞の連用形」と、文法的にもかなり多様に使われていることがわかります。

意味を解釈してみる

「ナラティブとは、端的に言えば体験の中で形作られる体験者自身の物語のこと」の解釈

ナラティブとは、端的に言えば体験の中で形作られる体験者自身の物語のこと。

ここで「ナラティブ」は名詞として使われていて、ストレートに「ナラティブ」の意味を定義しています。その意味は 「体験の中で形作られる体験者自身の物語のこと」 としています。

一般的に「物語」と聞くと、何か具体的な情報媒体(本や映像、ゲームなど)上に表現されたものを連想します。しかし、ここで説明しているのは「体験の中で形作られる」と言っているので、具体的な情報媒体上に表現されたものではなく、記憶の中の”思い出”として生まれるものを「物語」と表現しています。

単に「物語」とだけ言った場合、それは「出来事の連なり」についての内容、またはその内容について表現されたものを指し、「記憶」を指していることがわかりにくくなります。

一般に、出来事についての記憶は「エピソード記憶」と呼ばれているため、ここでは「体験の中で形作られる体験者自身の物語のこと」は 「エピソード記憶」 と呼べるように思います。

記事で説明している「体験の中で形作られる体験者自身の物語のこと」の「体験」は、人生のあらゆる体験を指しているわけでなく、記事中では特にビデオゲームで遊ぶ体験を指していると思われます。なので、本記事では「ビデオゲームで遊ぶ体験の中で形作られる体験者自身の物語のこと」を 「ビデオゲームプレイのエピソード記憶」 と訳していきたいと思います。

「ナラティブなゲーム」の解釈

ナラティブなゲーム

ここでは「ゲーム」という名詞を修飾している「形容動詞」です。先程、「ナラティブ」は「体験の中で形作られる体験者自身の物語のこと」と説明していましたが、これを応用して「ナラティブなゲーム」の意味を「体験の中で形作られる体験者自身の物語的なゲーム作品」とむりやり訳しても、その意味がちょっとわかりません。

別の解釈として「体験の中で形作られる体験者自身の物語が作られるゲーム作品」、つまり 「ビデオゲームプレイのエピソード記憶が作られるゲーム作品」 として理解することはできそうです。しかし、プレイしたことのエピソード記憶が作られないゲーム作品というのは想像しにくく、どのようなゲーム作品であっても、プレイヤーが人であり、エピソード記憶能力に問題が無ければ、基本的にエピソード記憶が作られます。そのため、この解釈をしても、実質これは何も説明していない文になってしまいます。例えば「目で見ることのできるリンゴを「ビジブル・リンゴ」と呼びます」と言っているくらい無意味です。

現時点では、その意味がはっきりしないので、いったん置いておきます。

「ナラティブを存分に活かした」の解釈

ナラティブを存分に活かした作品としては「ドラゴンクエスト」が挙げられるという。

ここで「ナラティブ」は名詞として使われています。なので、先程の「ビデオゲームプレイのエピソード記憶」と置き換えることができそうです。実際に置き換えてみると、ここの文は 「ビデオゲームプレイのエピソード記憶を存分に活かした作品」 となります。これは直感的にもおかしいことがわかります。

あるビデオゲーム作品をプレイしたエピソード記憶は、そのゲーム作品ができあがったあとに生まれるものなので、そもそも、そのビデオゲームプレイのエピソード記憶を、その作品の内容に活かすことはできません。

「ナラティブを活かした」という言い方なので「何かしらの手法を適用した」と解釈をすることができます。(その正体は不明ですが)そこで、本記事では「何かしらの手法」として「ナラティブ」という言葉を使っている箇所を一旦 「ナラティブ術」 と言い換え、手法であることがわかるような言葉に置き換えたいと思います。

「ナラティブな工夫」の解釈

自分の決断として物語を進めていけるこの方法は、ナラティブな工夫の1つとなっており、クリエーター同士で「ドラゴンクエスト方式」と簗瀨氏は呼んでいたそうだ。

ここで言う「ナラティブな工夫」の「ナラティブな」は形容動詞として述べらおり、その対象は「工夫」です。

「工夫」を形容する言葉の例として「賢い工夫」や「役立たない工夫」「簡単な工夫」「難しい工夫」などが挙げられ、これらは「ある工夫」についての属性や特徴を説明しています。同様に「ナラティブな工夫」といった場合についても、特定の「ある工夫」について詳しく説明したものであるはずです。

すでに解釈した「ビデオゲームプレイのエピソード記憶」という意味を適用しても、その意味がわかりません。

「ビデオゲームプレイのエピソード記憶が生まれるような工夫」と解釈できなくもないですが、ビデオゲーム作品であるならば、そのプレイの記憶は必然的に生まれるので、あえて工夫をするようなものではありません。

しかし、前述で一時的に「ナラティブ術」として置いた「何かしらの手法」という意味を適用すれば「ナラティブな工夫」という言葉全体を、その「何かしらの手法」として解釈できそうです。

引用文から該当の言葉を置き換えても「自分の決断として物語を進めていけるこの方法は、ナラティブ術の1つとなっており」となり、意味が通ります。

「ナラティブな体験」の解釈

物語はふんだんにはあるものの、ナラティブな体験とは少し違う。

ここの「ナラティブな体験」を「ビデオゲームプレイのエピソード記憶を作る体験」や「ナラティブ術の体験」と訳しても、その意味がいまいちつかめません。

先述の「ナラティブ術」(今は正体不明の何らかの手法)を適用したデザインを鑑賞したときの感覚、と解釈すれば、一応意味が通ります。

総括

ここまで書いてちょっと疲れたので、もう総括してしまいます。

取り上げた記事では、様々な意味で「ナラティブ」という言葉を用いており、そのナラティブの意味を厳密な理屈として解釈しようとすれば混乱してしまうような説明となっていました。

しかし、それぞれを「(今は正体不明の何らかの手法としての)ナラティブ術」に関連させると、意味が通るのではないかと考えます。

最初の

ナラティブとは、端的に言えば体験の中で形作られる体験者自身の物語のこと。

という説明も、上記ではいったん「ビデオゲームプレイのエピソード記憶」と解釈しましたが、「(今は正体不明の何らかの手法としての)ナラティブ術を適用したデザインを鑑賞したときのエピソード記憶」と解釈しなおせば、その特別な意味に少し近づけた気がしてきます。

「ナラティブな工夫」も、その術そのものを指し、「ナラティブな体験」についても、先述した通りです。

というわけで、当時一部で騒がれた「ナラティブ」論は、その全てがデザイン手法に起因する何か、と解釈したうえで、次回は松永伸司氏の『ナラティブを分解する』を読んでみたいと思います。

おつかれさまでした。

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